ある一日の終わりと翌日の始まり

 部活終了後の部室。
 とうに最終下校時刻は過ぎているというのに校舎の裏に建つアメフト部のプレハブ小屋からは灯りが漏れていた。
 誰かが消し忘れたのではない証拠に、物音が微かに聞こえてくる。
 当直の教師も見て見ぬふりをすることが暗黙の了解になっているから誰も咎める者はいない。
 そのまま夜が更けていったとしても、それは無かったこととして取り扱われる。
 何事も無いかのように時は流れていく。
 その無法地帯の中でテレビを食い入るようにヒル魔は見つめていた。
 こうして部活が終わってから、次の試合に向けて作戦を練ることはヒル魔にとって日課となりつつある。
 全ては勝つため。
 リーグ戦という形式上、負けることは許されない。一回負ければそこで敗退。二度とフィールドに立つことは出来ない。
 それは出場する者全てに平等に課せられたものだから、どこのチームも一試合の重みを嫌というほど感じている。
 全てにおいて手抜きは、油断は許されない。
 一瞬の気の緩みが命取りとなる。
 十中八九勝てる相手であれば、それは十回のうち一回か二回は負けるということ。
 どちらに転ぶか、それは何者も知り得ない。
 全てにおいて万全に、手抜かりなく、十全に。
 大会に臨む者誰でもが間違いなく思っていることだろう。
 それがゆえ、並に万全の体勢を整えたのでは意味が無い。
 敵の上をいくには、徹底的に万全の体勢で臨まなければならない。
 選手層の薄い泥門にとって取り得る最高の策は、見る者の予想を裏切る作戦を考案すること。
 それは相手校にも容易に考え付くことだから、泥門の司令を務めるヒル魔としては用心深くならざるを得ない。
 試合が近づくごとに居残る時間は長くなり、時には深夜、早朝に及ぶことすらある。
 それでもヒル魔は朝練に遅れることは無く、定刻十分前には校庭に立っている。
 ヒル魔はテレビの前で伸びをする。
 日付が変わらぬうちから睡魔に襲われることは宵っ張りなヒル魔にとってはあるまじきこと。
 それなのに眠気を抑制することが出来なくなりつつある。
 これはそろそろ危険か、と思いながらもヒル魔はテレビ画面を凝視することをやめないし、やめようとも思わない。
 ヒル魔が耐え切れなくなって欠伸をしたときだった。
「まだやってたのか」
 という声と共に部外者が侵入してきたのは。
「明日も練習あるんだろ?」
 小屋に入ってきたムサシは後手に扉を閉め、ヒル魔の様子を窺う。
「てめえか」
 対するヒル魔の返事は淡々としたものだった。
 歓喜も怒気も軽侮もその表情には無く、その無表情さがヒル魔の疲労の度合いを如実に物語っているようだった。
 もっとも、ヒル魔はそのことを認めようとはしないだろう。
「ちょっと通りかかったら灯りが点いてるのが見えて寄ったんだが」
 言い訳がましくムサシは言う。
 それを聞き流してヒル魔はテレビ画面に見入る。
 その態度を見て、ムサシはヒル魔と会話をすることを諦めたのか、肩をすくめて適当な椅子に座りヒル魔の作業する様子を観察し始める。
 深くなってきた夜の闇は灯りの漏れる小屋という空間を切り離す。
 そこだけが時の流れを無視するかのように煌々と光に満ている。
 ヒル魔は時を忘れて作業に没頭し、ムサシはヒル魔を眺めながら、ときおり嘆息する。
「帰らねえのか」
 ヒル魔がふと思い出したように顔を上げてムサシに問う。
「お前はどうするんだ?」
「さあな。やることが終われば帰るし終わらなければ帰らない」
 その答えは即ち、おそらく帰らないだろう、ということを意味する。
 最高の作戦なんて見つかるはずがないからだ。
「そんなに必死にやって何になる。身体壊したら元も子もないだろうが」
 さして興味もなさそうに呟いたムサシの言葉をヒルマは鼻で笑って一蹴し、再び細々と数値の書かれた紙の睨みあう。


 夜はそのまま更けていく。
 ムサシは帰路につくことはなく、淡々と時が過ぎていくのを見送り、その傍らでヒルマは際限のない試行錯誤を繰り返す。
 全てから取り残された空間の中にも時は流れる。


 やがて鳥の声がどこからともなく響いてきた時。
 ムサシは目を覚ました。
 状況把握のために数秒を費やした後、ヒルマが昨晩座っていた方へ目をやると、そこにヒルマはいなかった。
「あの裏切り者」
 とは呟くものの腹立ちはない。
 部室の時計の針は6時を指し示していた。
 もうじき仕事のはじまる時間だ。
 とりあえず着替えのために一回家に戻らねばなるまい。
 大きく伸びをして、不自然な体勢で寝ていたために凝り固まってしまった身体をほぐし、部室の扉を開けた。
 学校のそこここから歓声が聞こえる。
 運動部が朝練をしているのだろう。
 その中に。
 やはり、と言うべきかアメフト部の面々の姿があった。




 ムサシは知っているだろうか。
 自分が決定的なボロを出してしまったことを。
 高い塀に囲まれた学校の敷地の中を「ちょっと通った」くらいで見ることは出来ない。
 だから、ムサシは部室にヒル魔が居残っていることを知っていて来たことが容易に推測できる。
 そのことにあの勘の鋭いヒル魔が気づかぬはずがない。
 それでも敢えてムサシの嘘をヒル魔が追及しないことに、ムサシは気づいているだろうか。




 朝の風に身を委ねて校庭を眺めていた。
 一瞬。
 ムサシの視線に気づいたのだろうか。
 ヒル魔がこちらを向いた。
 視線がかち合った時のヒル魔の表情を読み取ることはできなかった。




 一日が、始まる。



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